投資などをしているとよく聞く言葉があります。
今回も本を読んでましてね。
そこでは”本質的価値”って言葉が何度も繰り返されていました。
なのでそれに疑問を感じましてね。
そんなかんなで本質とはなんだろう・・みたいな?
本質的な価値って何よ?って話です。
そんなことをつらつら考えてみるというエントリー。
過去に近い話はしてるね。今回は大体かぶってそうです。
もちろん今回は投資の文脈の中での話です。
価値とはなんだ?みたいな話は過去に偉い人が散々考えてきたテーマで、マルクスあたりは労働に価値があり、それを資本家が余計に働かせて搾取してるとか言ったりしてますし、そういう話まで広げると自分には語る力もないわけでだからここでは、投資の文脈の中で言われる”本質的価値”の話で、それをどう投資に使うか?みたいな話です。
以下のような余談もありましたけどここではだから今記事は投資に関して本質的価値とかが出てきた場合の話です。
不動産だとそれはすごく分かってます。
— ル☆パドラー (@Dora_lupin) 2021年9月10日
積算価格と言いますが、
結構長いので余談は上記のTweetのツリーでもみてくださいな。
この話に関して参考になる格言?があります。
「価格とは自分が支払うもの、価値とは自分が得るもの」
これはバフェットの言葉です。
自分が払うものが価格とはわかりやすいです。
例えばたけのこの里が200円だとすれば、200円を払えば手に入れることができます。
これがつまり価格です。基本的にこれは動かしがたい・・ってほどじゃないけどもし仮に値引きして150円にしたら150円が価格だよ。
とにもかくにも、それを手に入れるためにあなたが支払うお金が価格。
そして価値です。
よくわかりませんが、たけのこの里なら食べての美味さとか、栄養とか、原材料費とか、はてまた食べすぎからの健康被害をマイナスにするとか・・
まあいろいろなやり方で、どうやるか?ってのも簡単な話でもないとは思いますが、結局は自らが得るとするものを数値化するわけです。
で、その数値化したものが300円だったとします。そのときたけのこの里の価格が200円なら、それは安いと判断するわけです。
自分が払ったものより、自分がそれを買うことで得られるものが上回る。
その状態をもってそれはお買い得だとする。逆ならお買い得じゃないだね。
理屈的にはこの算定される価値が価格を上回ってるなら、もう価格は安くなる分はもうどうでもいいわけです。より安く売ると損じゃないですか。ならば持って得られるものを得たほうがいい。そうですよね?
高くなる場合は、持って得るものより大きい価格・・つまりお金が得られるかもしれないからあるいは売ったほうがいい場合もあるかもしれませんね。
なので、一つ言えることは・・
価格が自分が支払い、価値が自分が受け取るものとしたときに
価値を算出しそれより下回る価格でそれを買うという行為は・・
もう転売できないとしても損じゃないぞという宣言
になってないとおかしいということです。というかそういう宣言です。
いやだって持ってれば払った価格より得られる価値のほうが大きいんでしょ?
まあなにかの理由で得られる価値が小さく変化したら話も変わってきますがね。
たけのこの里なら腐るとか。トイレに落とすとか。自分が太ってお菓子を食べれなくなるとか。
でも自分は疑問なんです。
投資で本質的価値という人の多くはそのように見てない気がするんです。
自分がもって価値を得ることではなく、転売することに前提を置いた上でそれを本質価値だといってるように見えるんです。
それが本当にもう転売しなくてもいいぞ宣言ならいいんです。
自らを受け取れるとできるものを算出し、それ以下の価格であるときに買うという行為。
そうできるなら、それはもう転売する必要はありません。価格が下がったときに慌てて売る必要がないばかりかそれはただの自傷行為です。だってより受け取れる方を手放しより少ないお金を得ることになるのですから。
その価値の及ぶ範囲が自分だけであり、本当にそれを価格以下で買ったからもう保有することで得られるものの方がいいから二度と転売できなくても構わないぞという宣言であるのなら、そこにあるものを本質的価値と称するのもいいとは考えてます。
”自分が定める自分が受け取れるとする価値”を指してそれを本質的価値と称するのは構わない。
でも、たぶん多くはそうじゃないんです。
その範囲は自分以外を含めてる。あるいは自分は排除してるかもしれない。
転売を諦めてない。自分は要らないけど誰かに押し付ける気でいる。
そのようなものであるとき・・・
本質的価値って何?何をもって本質としてるの?
以前自分は上の記事でこう書きました。
「同じものでも人によって得られるものが違います。 価格という面においてはそれは同じものであることが多いですが、価値という面においては、それは人によって違うものなんです。」
今自分の目の前に携帯扇風機があります。
これで受け取れる価値は人によって違うと思うのです。
暑がりはより多くのものが受け取れるし、電池持ってない人はなんにも受け取れないんじゃないかな。
自分が受け取れる価値を算出するものならいいんだ。あるいは自分は指してなくて他の人やみんな、市場などを指して・・それはこれくらいかもしれないね?と推測とか憶測したものだとするくらいならいいんだ。
けれどそこが、本質だと宣う。
なんて傲慢なんだ。
それが率直な自分の感想です。
自分が定める勝手に引いたラインを他の奴らや市場の誰かが、お前はこれくらい受け取れるよな?とか線引して、ここが本質だ。これ以上の価格をつけなきゃお前らは間違い。なんて宣うなら傲慢ですよね。
それがさらには、自分は他の人に押し付けるつもりでいる自分は要らないとするものでそう宣うのです。これが本質だなんていいながら押し付ける。
本質という言葉には、間違いのないとか正しいとかはてまたは他の基準は正しくないというニュアンスが含まれるように思われます。
仮にある基準でここが本質的価値だなどと言うのならば、それは他の基準を採用している人たちに対する愚弄になるのですよ。それは本質じゃないということだからね。
そして本質だなんて宣うことは傲慢であると同時にその後自らの間違いを修正できない鎖も自らに科すことにもなるのです。
ある基準を本質とするなら他の人が採用する他の基準は間違いに見えるようになる。そしてそれは修正しがたい。だって自分の採用するそれは本質なのだから。修正されるものは本質ではありません。
問いましょう。
その本質って何?
察しのいい方は察してくれたかな?とは思いますが
自分が気にいらないって思ってるのは、本質って言葉です。
あなたでも自分でもこれが本質だって言ったところで、他の人も市場もそこが受け取れる価値だなんてラインを引いてくれるわけがありません。
だって人それぞれ基準があるもので受け取れるもの・・受け取れる価値など人によって違うのだから。
自分の提案は、それを本質だなんてして意見硬直することなんて避けようやってことです。というか価値において統一的なところを指し示す本質なるものなんてものはわかりません。存在すらしないかもしれません。
ただ投資ならまあわりと多くの人がこれくらいってする価値の引き方はあるとは思います。
例えば優待+配当利回り4%とか、PBR1とかネットネットとか騰落レシオとか。ザイの理論株価でもいいって。
誰かが偉そうに本質だなんて宣うそれは、これらのよくあるいろんな基準の一つでしかない。
それを本質だなんて抜かしても他の人は相変わらず他の基準で同じように投資判断を続けるだけです。
もちろん精度が高い低い基準があるのは認めます。ザイの理論株価を価値としてるならきっと苦労するだろうね。だからより精度の高いだろう価値の判断基準を模索する努力自体は否定するものではありません。ただそれは本質と呼ぶべきものではないだろうと言ってるだけです。
あ、だからその及ぶ範囲は自分のみで、もう価格が受け取れる価値が価格を上回り、もう転売もする気もなく保有することで得られる価値を受け取り通すとした上でのそれを本質だと言ってるのなら。はい、そのとおりです。ぜひその意思を貫ぬき価格がいくら下がろうと持ち続け価値を受け取り続けてください。その価値が満足するものになるといいですね。
まあでも自分はこれが本質だなんてはいいません。もちろん誰かがそう言うならそれも一つの基準だよねと、そういう基準もあると認めそれに対し敬意は払います。でも同時にそれを安易に採用したりしないで、自分はそれで何が受け取れるか?そして他の人は?市場は?どうみなすか?を考え続けることは怠らず、それを本質だなんて括り付けて動けなくならないようにはしたいと思っているわけです。
本質的価値。
この”本質”とはなんですか?