Twitterなどしてますと
よく相関図とかフォロー推奨アカウント集なんてものが流れてくるわけです。
よくあることなんだと思います。
それでこれもよくあるんですが、自分もほかの投資家さんと交流ない訳でもないし、人によっては数万とかのフォロワーあるひとだっているし、自分も日経マネーとかに載ったりしてまったく無名ってこともないと思うし。(有名じゃなくて無名じゃないだよ?これでもフォロワー4000近くあるしさすがにそのフォロワーの結構は自分を知ってるじゃないかな)
でも、そういった相関図とか推奨垢に自分が知る人が載ってるのは稀だし、もちろん自分なんて影も形もないわけです。
そんな相関図なども見て思う。
それはバベルの塔なんだ。という話。
で、本題は最後のほうは後ろです。
断絶があると思うんです。
現代社会のSNSにおいては断絶があって、断絶の向こうのことは全然わからない。
なんか投資してる中の話でも米国株とかインデックス界隈の話とか人になると全然わからない。これは相手からしてもそうでしょう。自分はともかくとしてフォロワー多いかぶ1000さんも(今見たらフォロワー14.5万でした)、知らない人は全然知らない。
もちろんTwitterで自分がまったく知らないようなものが流れてくるようにまったく繋がってないという訳ではないとも思いますが、基本としてあるグループはあるグループだけで交流して、ほとんどそのグループ以外とは交流なく、あるところで相関図など作るならそのグループ内だけの相関図とかアカウント集になり、違うグループからすればまったく知らないしピンと来ないリストになるような断絶があると思うんです。
同じ投資であっても、それがインデックス中心とか、米国株中心、日本株中心、そして日本株中心であっても、金融の方々、個人投資家、ファンダメンタルズ系、テクニカル系。
それぞれ近いもので固まり、その他のものとほとんど交流がない。
近いようなことに関心があり似たようなことをしてる人達ですら、さらに近いもので固まり他の固まりとは離れて断絶があり交流もしていないし知りもしない。
そのような断絶があると思うんです。
現代SNS社会においてはまったく交わり合わないその向こう側がよくわからない断絶がある。
正しく類は友を呼ぶなんだと思うところですが。
そしてその断絶は誰が作ったのでしょうか。
これは自分のはずなんです。
自分は自分のフォロー状態を調べてみました。
これを書いている時点で自分がフォローしている方は187名でした。
そしてその中からめについたフォローしている人を確認してみます。
自分が投資で力のある方だって思う方をみてみると、その方は6000人フォローいない感じですが(絶対的には多いフォロワー数でしょう)、自分がフォローしている190弱のうち半分ほどがその方をフォローしているという状態でした。
これをランダムな確率論に落とし込めると恐ろしく低い確率です。
その他この方は実力者だったり有益なことを言ってるよね?って思う方をみるとだいたい40を越えてる感じでした。
これはランダムな確率論に落とし込めると恐ろしく低い確率になることです。
以下の統計などみるとTwitterアクティブユーザー数は3.3億人ほどだそうです。アカウント数かユーザー数かはわからないけど(たぶんアカウント数)、これは膨大な数です。
が、自分が選んだフォローした方190人弱のおよそ半分が同様にある人を選ぶなんて状況が出現してくる。
これは確率からするとありえない話なんです。でもよく起こる。
誰をフォローするしないはランダムに決まらないからね。その結果統計的にはありえない確率になることでも当たり前のように頻出することになる。
そしてその状況を作ったのは自分なわけです。
もちろん自分はフォローする人を選んでます。
自分だけじゃないでしょう。
大体の人が欲しい情報が入ってくるように、そしていらない情報、あるいは不愉快な情報が入らないようにそれを選んでいる。
なかには無差別にフォローするような人もいるかもしれない。でもそれがフォローバックにしたって、フォローしてくるような人はその人の発信内容をみて選んできます。・・・例えばドラゴンボールに対する発言が多ければドラゴンボール好きな人のフォローを集めることになるでしょう。それにフォローバックしてればそれだって無差別ではなくドラゴンボールによる断絶を作ることになります。
真の意味でランダムにアカウントを探しフォローとかでもしない限り、偏ったフォローそしてフォロワーのリストとなりつまりは偏ったSNSと断絶が出来るわけです。
それが当たり前で、そしてそれはSNSを扱うその人が作ったものなわけです。
その結果、特にSNS時代の現代人は偏った情報経路を持つことになる。
ぼくらは偏った情報しか耳にしてなく目にもしてないわけです。
そしてたまに断絶の向こうと交流するとしても大抵すぐ離れてしまう。
以前あった話ですが、米国株クラスタ?の方が言葉を下さりつつフォローを受けたとかあったんですけど、数日後にみてみるとフォローは外されてました。
きっと自分は望んだようなTweetをしないと思われたのでしょう。
そして断絶の向こうとひょんなことから繋がった線はすぐ切られることになり、断絶がなくなることはなく情報経路は偏ったままであるわけです。
これは当然のことです。情報過多のSNS時代の現代人に情報の取捨選択するスキルは必須でしょう。そんなことは自分だってしています。多かれ少なかれ似たようなことを体験する人も多いのではないかとおもいます。
多くはそんなものなのでしょう。断絶を超えてなんか交流に至ってもその交流はすぐ切れてましまう。
きっと不愉快だから。そしてそうなればすぐにでも繋がりを絶てるのが今の世です。
そう選べるんです。
今の世の中はえらべるんです。
気に入らないものは、ばんばん絶って好みのものだけ並べていける。
それがインターネット時代の交流そしてさらには情報収集のスタンダードなんです。
そう思う自分はひとつの曲を思い出しています。
そして僕は途方に暮れるという曲です。昔の曲ですね。
「ひとつのこらず君を
悲しませないものを
君の世界のすべてにすればいい
そして僕は途方に暮れる」
自分を捨て去っていく恋人に対する気持ちの歌ですね。
「ひとつ残らず悲しませないものを世界の全てにすればいい」
これは当時はそんなことできっこないそして現実的でないという前提を置いた皮肉と言えるもので、そんなできっこない世界のために自分は捨てられ途方に暮れるという歌ですが、現代においてこれはかなり出来てしまうわけです。
僕らは世界に好みのものだけ並べて、悲しませるものを遠ざけて混じりっけのない純度の高い世界をも構築できるようになった。
そしてそれを構築すると出来るのが断絶だと思うんです。
インターネットは世界を繋いだと言うより断絶を作っていると言えます。
僕らは地球の裏側の人のことはしってるけど、(あくまで例、でも自分も名古屋にも友人がいる)隣の人のことはまるで知らないし、知ってももう狭い中で熟成されて価値観が狭まりもう意思疎通もままならない。
地球の裏の心地よい人は見ても隣の不愉快な人は視界から退けてるわけです。
そして、いつしか隣の人とは話も通じなくなる。
自分にはインターネットはバベルの塔の様に思えます。(バベルの塔の逸話は誤りも多いようですが)
近そうに見える例えば米国株クラスタとか近いことしてそうなところですらたぶんあまり話にもならなくて近くにいると不愉快くらいになるケースが多くなって、そして実際離れ断絶が生まれ僕らは狭い視野と価値観に熟成されていくのです。
そして言語を奪われたのは神からの罰ですが、現代のバベルの塔は使う人自らが積極的に罰を与えて隣人と意思相通もままならぬようにしてるとはなんとも皮肉な話である。
・・・自分はそう思うわけです。
そんなわけで、今日もTwitterで流れてくるほとんどの人が分からない相関図に現代におけるバベルの塔を感じたりするわけです。
僕らは罰せられて似たような言葉を話していても意思疎通は叶わないし近いようで離れて断絶があるのです。そしてそれらは僕らに対する罰なのです。
とか適当に自嘲気味に思ったりするわけです。
ですが・・実は本題はこれからなんです。
無茶苦茶偏っている。価値観も入ってくる情報も。 とりあえず自分もそして多くの人もそういう場所にいる。現代人はそういう環境にいる。
そして世界には断絶があり僕らは断絶の中のとても偏った世界で生きている。
好きなものを並べ、不愉快なものをどけて、囲まれる景色。
その世界はとても狭く、そして外界とは繋がっていない。
それはかつてのひとには届き得なかった心地よい素敵な世界とも言えますが、その世界は狭い。あるいは現実の世界と乖離している世界かもしれない。
この景色から見える色は、世界の景色の色を正確に映してない。
そう知るべきだと思うんです。
世界にはあなたが好きでもないもの不愉快なものがたくさんある。それに蓋して見えなくしたところで世界は変わらなく、それはあるわけです。
あなたは世界をちゃんと見れているのか。
あなたは世界をしらないはずだ。だって見てないのだから。
そう思うべきだと思うんだよね。
だって自分のTwitterフォロー状況ですらこんなに偏ってるのだから。
気をつけないといけないと思うんです。
自分はきっと世界を正しく見れてない。
進んで不愉快になる必要なんてないと思うけど、自分の見てない世界はあって、そこにはもっともっと不愉快なものもあふれてるけど、それも世界なのです。
Twitterを見ていると、よく他クラスタ?を阿呆だの間違ってるだのの文脈も感じることを仰る人も多いです。あなたもよくみるのではないか。
特に株クラなんてもんは、他ではあまり稼いでいないような金額を涼しい顔で稼ぐ人がいたり、極めて頭がよく合理的・・つまり優秀な方も多いように思えるところではあります。
そんな中で俺らは賢く正しく優秀だなんて”気持ちのいい”価値観に染まるようなこともあるかもしれない。
それで選民思想を抱いて自らは正しく他は阿呆でありその間違いを正してやるなんてするのもいいかもしれない。実際自らが正しく他のどこかの阿呆が間違っているなんてこともあるでしょうしね。
でもそれは自らは誤っていて自らを正す機会の放棄になるんだよね。
自らはお前より優秀であり、正しいのは俺で間違ってるのはお前。
そうした瞬間にもう自分に間違いがあった場合は認められないでしょう。だって優秀であるとした自分が実は優秀でもなく劣ってて間違っていたことを認めることになるのだから。
そして間違いは正される機会を失うことになる。
そしてあなたは知らないはずなんです。
断絶の向こう側を。
偏ってるはずなんです。あなたが知ってることは。
その中で、自分が正しく相手が劣ってて間違いだとすることがどんなに危険なことか。
ほんとは知らなくて誤ってて劣っているのは自分かもしれないのに!
そんな世界の中でそれを正す機会を自ら奪うとするのなら。
それは危険だとおもいませんか?
そう思うわけです。
自分は今日もせっせとバベルの塔をつくります。
入ってくる情報は有益なものに。有害なものは入ってこないように。
塔を作ります。
その結果、きっと断絶は消えずむしろ深まり自分は隣の人と意思相通もままならくなるでしょう。
それはバベルの塔と同じく人に与えられた意思疎通に対する罰です。それをみずからに課す愚か者です。
しかし、それが偏った価値観を作り出す不完全なものだということは意識に刻み、みずからは優秀で他を断罪しようとして自らの誤りを正す機会を放り投げるなんて愚を犯さないように心がけていたいものだ。
そんなことを自ら作ったバベルの塔から見える偏った景色を見ながらおもうわけです。
現代SNSが作り出す価値観は偏っていませんか?
偏った価値観で他を断罪すること。
それは自らの過ちを正す機会の放棄ではありませんか?