株式益回りという言葉があります。
上の記事でも言いましたけど
これが期待リターンを現すとかわりと言われる気もしますがそれって嘘なんです。
・・・自分はそれは明確に嘘だと言いますね。
けどそんなことは上の記事で言ったし今回はそんなことを言いたいのではなく、それを嘘と言える姿勢の話だし・・
そして疑いの中から生まれるコペルニクスの話。
以下の繰り返しみたいな話だね。
繰り返すのは自分はこのへんは大事だって思ってるってことだけどね。
株式益まわりが期待リターンを示すってことなら嘘なんですよ?
これはわりと言われることも多いイメージです。
自分は複数以上の方がこれを言ってるのを知ってます。
それも仰っている方はわりと素人ということでもなく投資で見識があったり経験豊富だったりするケースも散見します、と言うより株式益周りがPERの逆数というわりとマニアックな数字ですので言及される場合はかなり投資知識がある方が多いのはある意味自然でしょう。
・・・その前に株式益まわりとは何かを説明しないとですね。
野村様によると「1株当たり税引利益を株価で割ったもの。株式を分析するときの指標のひとつでPER(株価収益率)の逆数。一般にPERが低いほど株価が割安とされるのに対して、株式益利回りが高いほど、株価は割安と考えられる。」です。
その中で誰が言ったか知りませんがPER10ならそれはその年の純利益を10倍すれば時価総額になる。
ならはそれは1年に10パーずつリターンがあるのと同義でそして1年で1割ずつ増えて10年経てば2倍になっている。
これはわりと直感的感覚に沿ったものなのだろうと思います。
野村様ならそんなこと言ってませんが。
これは直感的に沿っている。
いわば太陽が地球を回るようという言説のように。
太陽は東から登って西に沈む。回ってるように見えますよね?
それに近いものかもしれない。
しかしだしかし。
これは実際には事実とは違います。
再度出しますが詳しくは以下の記事を見て欲しいのですが
株式益周り10%=PER10は、年に10%の投資利益が出るでも10年経てば倍になるとか買った分の利益が出るも示しません。
計算すればそれがわかるのです。
上の読んでない人にざっくり説明すると仮に・・・
ケース1:株価3000/PER2/BPS50000/EPS1500/ROE3%
ケース2:株価5000/PER100/BPS100/EPS50/ROE50%
等をPER、ROEを固定として比較するとそれがわかります。
ケース1の一年後はEPS1500がBPS50000に加わるので
株価3090/PER2/BPS51500/EPS1545/ROE3%で一年で3%増
ケース2の一年後はEPS50がBPS100に加わるので
株価7500/PER100/BPS150/EPS75/ROE50%で一年で50%増です。
これは簡単な計算の結果です。
ですが、ここまで計算すればPER2で益周り50%だろうがそれは年50%増えることを全く示してないというのがわかるはずなんです。
というか株価はPER×EPSあるいはPBR×BPSなので、PER PBRが上昇しないないならEPS BPSが増えなきゃリターンは増えません。というか長期の株式の期待リターンはEPSあるいはBPSの増加スピードです。それはPER(株式益周り)というより遥かにROEが近いです。
・・・・というも実は違ってましてこれは還元されない分はそうなんですが還元される分は違った結果になるというか
まあもう少し計算すると・・つまり還元性向100%にして計算するとPERというか株式益周りがリターンというか要するに配当利回りがリターンになるわけですね。
長くなりましたがここは本題じゃないのでだから記事見て。
で、本題はというとこれは計算すればすぐわかることなんです。
つまりわかってないならそれは計算してないはずだし、もっというならこの益周りが期待利益だならおかしいんじゃないか?なんて事例がたくさんあるわけです。
例えば益周りが期待リターンならPER低い方が大きなリターンを得られる。・・ここまではまあいいでしょう。
ではその時例えば極めて高いリターンを実現している事例を考えると・・だから長期に株価が右肩になってる。つまり実績として長期に株高をしてるもの・・例えばエムスリーやGMO PGやMonotaROなど。
・・これはら常にPER高く益周り低いわけで、あれ?これって違うじゃん?ってなるはずなんです。え?なんで?ってなるはずなんです。
故にその答えをそのままそうなんだって受け止めることは、それらを観測してない・・あるいは観測したはいいけど意識的か無意識的かは知らないけど生まれるはずの疑問をスルーして軽視してるはずなんです。
計算すればわかる。
生まれる疑問を軽視しなければ立ち止まれる。
立ち止まって計算や確認すれば誤りは露わになる。
それもしないで誤った結論に辿り着きそれを疑いもしない。
それがたくさん学んで見識豊かだったり、経験をたくさん積んだ人でも平気で嵌りうることなんだということです。
生まれるべき疑いは次元の狭間に消えてゆく
今回は益周りを扱ってますけど、このエントリーの趣旨はもっと大きなところです。
自分はその日、益周りが長期の期待リターンを規定するという趣旨を言われる方のツイキャスを聞いてました。
自分はそれを聞く前からそれに疑問を持ち計算などして確かめ疑問点や結論も整理して上の記事などを書いた後だったのでそれが正しくないとすぐにわかりましたが、それに対してほとんどの人は異論も挟まず受け入れていたようでした。
いくつかの疑問を挙げる方もいたけど、意図してかそうではないかは知らないけどスルーされてました。
これは言ってる当人だけではなく聞いてる人も含めみんながみんなです。
声をあげない方もいたかもだけど、少なくともそれは間違い(だから自分はそれは間違いと断ずる立場です。だから疑問を持ち計算などで確認した上で。)なものが結構な人数がいて疑問もなく多くの人は受け入れる。
これはね。とても恐ろしいことなんです。
もっともらしいことはそれが誤りであっても。
それは簡単な計算ですぐに間違いだと確認できるようなことであっても。
たくさんの人がいても。その中にはたくさん学んで知識が豊富だったり、経験をたくさん積んでいた方も相当混じっていても。
もっともらしいことには疑問が挟まれず、そこに少しの疑問を発する人がいても封殺され・・・
みんながみんなで間違ったものを正しいのだと信じてしまう。
・・恐ろしいことだと思いませんか?
ピンときてないですかね?
そんなことあるわけない。・・そう思いますか?
でもこれはわりとよくあることなんです。
人は直感的に疑問を感じなければ裏付けも検証もせずその答えを受け入れるのです。
でも直感的に正しいと感じることが本当に正しいとは限らないくらい人の判断力なんてものは信用できないものなんです。
その結果自分も学生の時は運動の時に水なんて飲むなんてとんでもないとか思っていたわけなのでありましたし、中世の人はみんながみんな太陽が回ると思い込んでたのでありました。
かつてはみんながみんな太陽は地球を回ると信じていたのです。
それも学者なんて頭のいい人ばかりが必死に天文研究をして1000年以上間違いに気がつけない。
それはもっともらしく誰も疑問を向けなかったからだと思いますよ?
だってさまざまな反例もあり軽視しなければ疑問も持てるはずで疑問を持って計算すればすぐ誤りだってわかる株式益周りに対して、もっともらしければそもそも疑問も持たれずたくさんの賢い人が揃いも揃って間違いに気づけないくらい人なんてポンコツなわけだから。
疑いを向けるべきだと思いませんか?
人の判断力なんて人の認知なんて自らのそれなんて信用に足らないポンコツ。
自分が感じるあるいはみんなが感じる正しいことだってそれは間違いかもしれない。
そして簡単なことであっても疑いを向けられなければみんなで間違ったまま。
人なんてそんなもんだと知るしかないでしょう。
そんなわけで例えばAなんだぞって言われたとき、すぐAなんだって思わずいくつか事例を思い浮かべてXはどうだ?Yはどう?って試すというかほんとにAか?ってやってく姿勢は大事だと思うんだ。
計算できるものなら計算してみる。大事だと思うんだ。
もっともらしいところはかえって見逃されている間違いがあるかもしれない。
直感が教える正しいと思えることも疑うことです。
自分が正しいと感じることは正しくないことも多いと知ることです。
そう思わない限り正しいことと感じることは疑えないのです。
もう一度言います。
正しいと感じてる限り疑えない。そこに誤りがあっても正すことは叶わない。
「自分の感じることは正しいとは限らない。自分は正しいと思いながら平気で間違いを犯しそれに気づかず平然としてられる。」
自らを疑うことを知るべきではないか。
疑ったものは試してみましょう。
自分は疑いました。
「株式益回りは期待できるリターンを表す。」
この命題を。
一見らしく見えるこの命題。そして大体の人が疑いもしていないこの命題。
計算すればそれが間違いであることは明白に示されました。
エクセルに式を入れ込んで10分ほど。
それだけの手間で裏付け、検証するだけでほとんどの人が疑いもしないが故に間違ったままである中で数少ない正解者としてたどり着けるわけです。
疑いから生まれるコペルニクス
きっとコペルニクスもそうしたのでしょう。
太陽が地球を回るとみんながみんな信じてる中でそれを疑った。
そして実際そうなのか確かめたら、地球が太陽を回っていた。
ある意味コペルニクスは疑いから生まれたと言えるでしょう。
コペルニクスにそれは間違いだと突きつけられた人にはコペルニクスより賢い人もごまんといたでしょう。偉い人だって他の学問で役に立つ論文を出した人だっていたでしょう。
けれど、太陽が回ることは疑えなかった。当たり前を疑えなかった。
賢く実績のあった人もそれは間違いだと叩きつけられたし、後世に名を残したのは当たり前を疑ったコペルニクスだったのです。
当たり前と思えること感じることに対する些細な疑いは捨てるべきじゃない。
そしてそれを捨てないのなら、あなたはコペルニクスになれるかもしれない。
だって株式益回りは別に期待リターン(投資利回り)を示しているわけじゃないというこんなかんたんな計算をすれば明らかになることすら、疑われずだれも計算せず放置してほとんどの人が納得してるのだから。
おそらくは疑いの目を向けられず間違いは間違いのまま多くの人が信じてるなんてことはたくさんあるのだろうと思います。
まあ、そんなの間違いだと宣言し世間を敵に回して喧嘩したコペルニクスになるかどうかは別ですしそこまですることもないでしょう。やりたいひとはやれおもしろ
そんな事をしなくても、みんなはわかってないけど自分だけが知ってる正しいことを武器にすることだってできるだろうし、話の分かる人だけで共有するのもいいでしょう。投資なら優位性につながるかもよ?
でもそんなことになるのもあなたが、一見当たり前とも感じることに疑いを向けられるかだと思うんです。
自分はそう思うわけです。
故に自分は当たり前とも思える中に生まれる違和感も捨て置かず、常には難しいけど時には裏付けし確かめ当たり前と思えることに、自分の感覚にも疑いを向けられるようでいたいと思うわけです。
コペルニクスになれるかはわかりませんけどね。
あなたはその疑い。小さな疑いに立ち止まりますか?
当たり前を・・自分を疑えますか?
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