タイトルは至って真面目です
このタイトルはふざけてるかあるいは狂ったとでも思われそうですが、極めて真面目にこの記事で言わんとすることを要約すると世界の中心はおにぎりなんです。
自分はそう考えるようになりました。
まあ順を追って説明していく。
全部聞いてくれるなら同意共感されるかは別として自分が何を言ってるのか?このタイトルの意図とかは通じるのではないかと思う。
そんな話。
ちなみに「世界の中心はおにぎり」の対義語は”拝金主義”です。
もっとちなみに今回は「投資やお金について考える」のカテです。
僕らは拝金主義というかお金を基準に考えすぎてると思ってるんです。
現代はお金の時代と言えます。お金は世の中心に据えられています。
資本主義だから仕方ないというか当たり前だとも思うんです。
確かにお金は確かに素晴らしい道具だしまたすさまじい力も持っています。
けれどね‥‥。
僕らはお金でものを考えすぎてるというかお金に力を与えすぎているのではないか?
そういう疑問を自分はもっているのです。
ここでいう拝金主義とはお金があれば何でも出来るとかお金を持ってる人が偉いとかそういうの面もないことはないけど、あらゆる事をお金を基準にして考え過ぎなのではないか?と言う部分を指してます。
つまり世界の中心にお金を据えすぎていると思ってるんです。
何を言ってるのかわからないと思います。なので例を挙げようと思います。
ナウルという国があります。
ナウルという国があって、レアアースのリンを算出してて昔は世界一裕福な国とか言われたそうですが、リンを彫り尽くして今では世界で最も貧乏な種の国に落ちぶれたそうです。
ナウルは残念ながら?自国通貨ではなくオーストラリアドルを採用しててハイパーインフレとか起きてないんですが、これがナウルドルでも採用してたら自分はナウルはハイパーインフレに陥ってたと思うのです。
きっとジンバブエにも並ぶ悲劇というか喜劇というかそのような文脈で語られる事になったと思うんです。
まあでもインフレが問題なんじゃなくてナウルの人がなぜ豊かになってそして貧しくなったかと言うなら、実際に存在しないナウルドルが価値を持ったとか暴落したとか、つまりお金の問題ではなくて、ナウルが他の国の欲しがる価値であるリンを提供できたからでありリンを提供できなくなったからだと思うわけです。
ナウルは豊かになってそして貧しくなりました。
それはお金のせいでなかった。豊かになったのも貧しくなったのもリンという価値のせいだと思うんです。
ジンバブエもきっとそうです。ジンバブエはハイパーインフレになったから貧しくなったわけではなく貧しくなったからハイパーインフレが起きたのではないでしょうか?
というかそうなんですよね。ジンバブエも白人を追放することによって、白人が制御していた産業が壊滅する・・つまり価値の毀損がありその上で価値の毀損をお金の発行で解決しようとしたからハイパーインフレになったように思えます。自分にはジンバブエもナウルがリンを彫り尽くしたのと同じ様に価値の生産が滞ったために貧しくなったように思えるのです。
だとするなら僕らはナウルやジンバブエの物語から何を学ぶべきなのでしょうか?
今、お金はわが物顔で社会の真ん中に居座ってます。
けれどお金はそれだけでは何もできません。
と、言ってわかるでしょうか?
お金はお金だけでは何も成し得なく、例えばおにぎりがあって初めて用をなすわけです。
そしておにぎりはコメと塩とか海苔とか具材などでできています。
おにぎりは食べられるという価値です。美味しいという価値です。
そしてそのおにぎりを作れるというのは価値です。
他にも工業原料に使えるリン鉱石も一つの価値ですね。
それは便利な工業製品を作ることが出来る価値ですね。
そしておにぎりもリンもお金で出来てるわけじゃありません。
と、いうより世界の何一つもお金で出来てるものはありません。
価値というものはそれこそどんな価値もお金ではできていないのです。
もちろんおにぎりを作るのもの・・何らかの生産能力もお金ではなく価値と言うべき存在です。
(まあ金融商品にはお金と見なせるものもありそうだね)
世界はお金で出来てるとかいえばいくらか説得力もある‥特に現代資本主義社会の中では‥様にも聞こえるけど、実際には世界はお金というよりは遥かに、おにぎりや不動産や自動車やリンとかもうそれこそいろいろ。それこそいろいろなものや価値によって構成されてるのではないでしょうか?
その意味で世界の中心はお金というよりは遥かにおにぎりなんです。
どんなにみんなが世界の中心はお金だと言おうとも自分には実際には世界の中心はおにぎりなように見えるんです。
もちろんおにぎりは例えだよ?
価値の例え。価値が存在し価値は作られ価値が足りたり足りなかったり。
そういうお金以外の何かの価値がお金そのものより世界を構成する、世界を回しているという例えが世界の中心はおにぎりという表現です。
おにぎりがなければお金なんて何もできない無力なものです。
お金が無力ならばお金をいじっても世界は変わりません。
世界を変えるのはいつだって価値の形だしその価値の変化です。
リンがなくなったときにナウルが落ちぶれたのごとく価値が失われるとお金がどうあろうとどうにもならないというかだって世界はお金でない価値でできているのだから。
その意味でおにぎりこそ主でありお金は従であるべきものです。しかしながらその従なものに力を与えすぎたというかそれが力を持ってると幻想を抱くものが多くなりすぎた。
その主従逆転。それを自分は拝金主義と呼んでいるのです。
例えばお金がないという問題は世界が価値で出来てるのなら存在し得ないというかそれは拝金主義に染まった考え方なのです。
本来それは価値がないと言うべき事象です。
価値を考えるところから目を背けそれをお金の問題とするのは拝金主義です。
世の諸問題はおにぎりの様が生むのであってお金が産むわけでありません。
拝金主義に染まった結果・・・
世界の問題を解決するのは価値であると忘れ、お金が解決すると誤認してる・・・
そんな拝金主義にハマっていませんよね?
そして自分はそれに警鐘を発したいと思ってるわけです。
まあ、自分はお金はあるものの価値の代弁者だとは考えてますので実際にはかなりお金にも価値があるというかだから価値の代弁者だって。
その意味で世の中をお金で考えるのはかなりやりやすいし多くの場合は適切と言うかもっといい方法がない・・ってのもそうだとは。
いや、ホントはね。トヨタの価値は例えばプリウスやレクサスの生産台数とセブンイレブンのおにぎり提供能力やそれらの一人時間あたりの生産数の比較など・・つまり価値をベースに比較していくほうが実態に迫れると思うところだけど、それって凄まじく面倒で実務上は実行はまず不可能だからね。だからお金で測る・・例えば売上や利益で測ったりするのは仕方ない妥協。
でもそれが拝金主義に突っ込んでいることを知るべきだろうってのが今回の自分の主張です。
その売上や利益や平均給与とか。すべてそれは例えばレクサスの生産能力などの価値で測るべきものだけどそんなので測るのは
あまりにしんどいのでお金で代弁してる。
ただそれだけ。
お金は価値を代弁してるだけにすぎずない。
お金の背後には価値があり本当に大切な僕らの幸不幸を決定するものはお金のあり方ではなくその背後にある価値のあり方だと思うんです。
そのお金より価値を優先的に考えてゆく姿勢を自分は世界の中心はおにぎりと呼ぶのです。
ぼくらはお金に力を与えすぎました。
お金がどうあろうとそこには力などなく、僕らを幸福にしまた不幸に落とすような力を持つのは価値というもののあり方です。
ぼくらはお金に力を与えすぎました。
なのでお金からその力を取り上げ冷静になる必要があると思うんです。
それは例えばお金があるならナウルが救われると考えるのをやめることです。
政府の借金が増えると未来は真っ暗だと考えるのをやめることです。
お金をいじれば世界が変わると考えるのをやめることです。
世界を変えるのはいつだって価値の変化なのだから。
端的にはもっと価値を真剣に考えるときが来てるということです。
ナウルを救うにはどんな価値が必要でそれをどう作っていけばいいのか考えることです。
日本でもそれは一緒です。というかそれは世界何処でも一緒です。
例えばおにぎりをみんなに行き渡るせるにはどうすればいいか?とかね。
今のおにぎりよりもっと美味しいおにぎりができる方法を考えてもいいかもね?
あるいはおにぎりがありすぎて困ったことも起きてるかもしれない。
だからおにぎりはたとえだよ?
主である価値をもっと考える。
その中で従であるお金のあり方をどうすればいいのだろう?というのも考えられるかもね。
もっと価値をより良い形にする、もっとみんなに価値を行き渡らせる。そんなお金のあり方もあるかもしれません。
世界に必要なのは価値でありお金ではない。
そしてお金を基準にすべてを考える拝金主義ではなく、もっと価値のあり方を考えていく‥
価値に注目しながら価値を主人公としながらもお金ともむきあっていく。
世界の中心はおにぎりとしていくこと
それが必要だしそうなっていく必要がある。
自分はそう考えているわけです。
僕らはもっと価値を中心に考えるべきじゃないでしょうか?
世界の中心はおにぎりとなるべきじゃないでしょうか?