大河の一滴

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投資は結果がすべてではない

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投資は結果がすべてである

 とか言ってる人は多いです。

ついったとかで言われてたらイイネがたくさんついてたりとかもするね。

そんな中で思う話。

 

投資は結果がすべてはちょっと違うんじゃないかな?ってところだし、むしろ結果がすべてとするのは危険に思えもするし、それを真に受けているのは浅いというかたぶん考えてないしあるいはそれで致命的な罠に嵌まるかもねって話。

 

本当に投資は結果がすべてなのでしょうか?

すべてということは他に構成要素がないということです。

他に構成要素があるならもうすべてじゃないよね?

 

ということは結果がすべてということは出ている結果ですべてを判断するということです。

例えば・・・

・2014年辺りに仮想通貨を始めて2017年までに100倍にし2018年に5分の一にした人(結果20倍)

・2014年辺りに個別株投資を始めて2017年までは調子良かったけど2018、2019年に3分の一まで減らしてトータル5倍の人(結果5倍)

・2014年辺りに個別株投資を始めて毎年負け無しに毎年30%程度増で2019年までに資産を3.7倍程度にした人(結果3.7倍)

 

なら、仮想通貨で20倍の人を一番重く見る発想です。

見ないという人がいるなら言ってください。

 

そうならすべてじゃないよね?

 

すべてだとはならないんじゃないかな?

投資で結果がすべてなどと言うのは、全く無知の素人でもなければなんというかある種本当はそうは思ってないけど、心がけと言うか標語の類なんじゃないかと思ってたりします。

 

というか投資は一人の実力がそのまま結果にならないことの代表的一例です。

これが徒競走や算数のテストの点ならその結果はまずおおよその実力を反映したものが出るでしょう。

徒競走で50M10秒で走る人が13秒で走る人より走力が劣ることは極めて稀です。

 

しかし株価であるなら、それが上がるという結果は自分でない誰かが今より高い株価で取引する必要があります。

PER×EPSのEPSという視点なら自分がいくら頑張ってもEPSは上がることがなくそれを上げるのは企業です。

投資というのは結果に至るまでに享受する本人の努力や頑張りで結果がコントロールできる度合いで言ったらあまりコントロールできないものとなりそうです。

 

ならば投資はまったくもって結果がすべてじゃない。

 

知識をつけ経験を積み努力もして最善手を打ち続けることで結果がでるとは限らない。

時には凄く間違ったことをすることがある時期すごく結果が出ることだったりする。

その人の資質や実力などが結果にストレートに反映するかしないかで言うなら、例えば陸上競技や数学のテストとかに比較して・・・

 

投資はその他の多くのものに比べ遥かに実力や積み上げたものや資質がストレートに結果に反映しない。

 

あるとき儲かった人が実力あるぞだなんて思って専業化して大失敗、名実ともに見識ある実力者がある時期まるで冴えない結果になる。

一方で知識もない何も考えてない人が巡りが良かっただけで傑出した結果を出していたりする。

そんなことが日常茶飯事に起こるくらいは、投資の結果はなんというかその人の頑張りを反映しないようなものに思えます。

 

そういうものだと思うんですけどいかがでしょうか。

 

 

その中で結果がすべてという。

自分は本当に?って思います。

というかそれでいいの?とすら思います。

 

正しい努力で結果が出なかったり運よくとかまぐれ当たりで結果が出るときだってあるだろう中で結果がすべてとしてていいの?

 

結果がすべてという言葉はどこを見ているのでしょうか。

その結果がでた後なのではないのでしょうか。

過去を見てるならそれはそれで終わりなら結果がすべてでいいかもね。(その結果のあとに何も続かず終わるケースなんてあんまりないと思うけどね。)

そうでないならその言葉は未来も見ているのでしょう。

 

そのときに運良くぶち当ててでた結果を結果がすべてとかで処理していいわけないでしょう。

その言葉が未来を見るものであるなら、投資は決して結果がすべてだなんて片付けてはならないものだと思うんです。

 

って、こうは言ってるけど、そのように言ってる人もしてないですよね?

というか結果がすべてと言ってる人の多くが結果がすべてで判断してないように見えるからね。

結果が全てとか言う人はそういう価値観世界観をもってるだけのような。一種のスローガン的な。ある意味あんまり意味のない金科玉条みたいな。上でも言ったけど。

あるいは、結果は努力や実力というかなんというか頑張りに応じたものであるべきだみたいな理想を言ってるのではないか?とか思ってます。

あるいは、いろいろ考えるのが面倒だからええいもう結果で判断すればいいじゃんと怠けてるだけのようにも思えます。

 

ていうか投資は結果がすべてだなんて自らの出す言葉の意味をよく吟味もせずなんとなく雰囲気で言ってるだけの戯言でしょ。

残念でした。特に投資の世界はそんなに単純じゃありません。

 

うんだから、実は自分はそう言ってる人も言葉ほどそう思ってないだろうと思ってるんだけどね。

なのでまわりの人はそう言う人の言うことを真に受けてイイねなんてしてないでもうちょっと結果のでかたにたいしてもうちょっと思慮深く考えたほうが益があるんじゃないかな。

 

 

なに?まだ結果がすべてっていうの?

じゃあ、自分より結果をだしてるなら、それがnote売りになってても、仮想通貨でまぐれ当たりであったもへへーってなる?

ならないよね。

ならばもう一度言うけどそうなら結果がすべてと思ってないですね。

 

ちなみに自分は全然は違う価値観です。

2017年は株式投資するより仮想通貨投資してたほうが結果良かったと思うけどその結果が全てとは全然思わないし。同じ年10%でもそこに至る部分でまったく評価を変えるというか、下手したらある時期倍になったことより10%の損失になってることをより評価するかもしれません。

うんだから過去を見るなら2017年は株式売っぱらって仮想通貨買えばよかったね。は、100%そうですね。だけど2017年に仮想通貨を買って大きく増やした人が実力あってそのあとも好成績を収めるだろうならその結果だけではまったく判断できません。

 

その結果だけでは判断しませんと言うよりできないのです。

もっと内容とか経過とか言動、一貫性、行動などなどいろいろ踏まえてそれを判断しないと見誤ると考えているくらいは結果はまったくもってすべてじゃないと考えてます。

実際めんどくさいです。結果がすべてみたいなノリで判断できるならこんなにラクなことはないとすら思います。

 

でもしかたない。

投資なら全然結果が全てじゃない。 これだけ結果が全てじゃない世界はないのではないかと思えるくらい結果が全てじゃない。

だから10%という結果が20%という結果に劣るとか本当に容易に言えないわけです。

続く未来によりよい結果を求めるためにはどうすればいいか?ということを考えるために結果がすべてとか安々に言えないわけです。