Qレシオなるものがあったそうです。
正確には今でもあるんだろうけど、自分もリアルではとんと見ないのであったと言っていいんじゃないかな?
そんな指標だったりするQレシオ。
今ではとんと見ない指標ということになりそうで、グーグル先生に聞くと個人HPなどでそんな指標もあったよなんてQレシオなるものがありましたと記録に残るのみ。
そんな記録を見て思ったこと。なんてお話。
Qレシオとはなんであろう?
以下だそうですよ。
実質株価純資産倍率(Qレシオ)
Qレシオ=株価÷1株あたり(純資産+含み資産)
そのQレシオですがPBRの親戚みたいだね。
PBRの場合多くは、簿価で計算することが多いのですが、そこで株式とか不動産の評価額の含み益も考慮した上のPBR的な。
時価会計チックに考えてみましたってことだよね。
ある意味時価会計の先取りとも言えるかもしれない。
こう聞くとなかなか説得力あるよね。
いやだって自分が株式持ってそれの価格が動いたらその動いた価格で計算するしね。
100万で買ったものが一億円になったとき、私の資産は百万ですというのも実情を説明としたとはなかなか言えないだろうし、逆に一億円で買ったものが100万になってら、それでも私の資産は一億ですとか言うのは自由だけど、説得力を持たないよね。
というわけで価格変動を考慮して時価で含み益や損が出てそうならそれを考慮した値に動かして、それで今の株価とどうだ?ということを示したのがQレシオっていうものです。
しかしこれがもてはやされたのがいつなのか?
バブルのときです。バブルのときなんです。
株価も不動産も大いにバブルったバブル。
株価はやたら意味不明に上昇して平均を取ればPBR5ほどいったようです。(今、2018年なら1.3くらいかな?)
そのとき既存のロジックではその上がった株価など説明できない。
そのときにそれを説明するために、引っ張り出されたというか、作られた指標がQレシオといっていいんじゃないでしょうか。
企業が財テクとして買った不動産が尋常じゃない価格に上昇してて、さらっと調べるとおそらく表面利回りだと思いますが2%みたいな利回りにもなったようです。(通常というか、不動産利回りに通常とか正常をどこの水準に置くかは難しいですが、表面で9〜15%くらいが適正だとか見たことはあります)
2%は金利を含んでいないなら借りて買えば赤字になるはずだし、金利含めて2%でもちょっと不利なことが起こればすぐ赤字でしょうね。ていうか投じた資金回収を考えると100年じゃきかないかもしれません。
でもそんなところまで不動産の価格は上がったわけです。
なぜって?もっと高く転売できると思ったから。
それが収益物件としては破綻している価格帯までいってもね。
バブル時の株高を正当化するために、引っ張り出されたQレシオは、確かに大きく値上がりした不動産を売っぱらえば、それくらいの財産があるねみたいな説明はできましたが、なんで不動産の利回りが低くてもいいのかも、不動産の価格が落ちない根拠も説明できるものではなかったんです。
その後は、お察しで。
不動産の価格上昇は終わったとき、バブルの終焉を向かえたとき、不動産の価格は正当化されなくなり・・というか誰もより高い価格で買う勇気を失い、価格はどんどん下落。
そして企業にたまった不動産含み益も見事に転落。Qレシオは高くなった株価を説明しただけで結局暴落は起こりというかQレシオなんぞには市場法則の現実を捻じ曲げる力なんてもともとなかったんです。
不都合な事実を見たくなかった人がハリボテの希望や安心を見たくてこさえただけだったのです。
愚かな。と、思う人もいるかもしれない。
しかしそれは愚かではないんです。
むしろ人は都合のいい未来を肯定するために、現在に安心を視るために、それ相応に説得力のあるロジックを構築してしまえるほどには賢いんです。
うなぎのぼりになる株価、
それはどう見たって高くないはずはない。でもこれをどうにか高くはないと説明してしまいたい。
それは別に高くない。これは正当な評価だと言ってしまいたい。
まだまだ上がある。その可能性は十分だと納得したい。
そうなったときに、人は都合の悪い現実を心地よく目隠しできるアイマスクを見つけてしまえる程度には賢いのです。
そしてガチガチに理論武装した結果、破滅に向かう未来を見据える目は目隠しされそのまま突撃してしまうようなことが往々にして起こるのです。
だから気をつけなきゃいけないよね。
根拠や理論は大切。
根拠や理論を用意できるから筋の通った行動ができるといえます。
それは長くはあなたの投資を明るいものにするでしょう。
しかし、それは根拠や理論を用意すれば株高しないものが株高するようになるというわけでも、始まるはずだった株安が起こらなくなるということではありません。
それらに現実を捻じ曲げる力などありません。
根拠や理論が世界を作っているわけじゃなくて、世界から根拠は生まれるし、世界を説明するのが理論だと思うんです。
いわば、因が世界で果は根拠や理論。
それを因が根拠や理論で果は世界とはやってはいけないのです。
そうならないように気をつけないといけないとおもうんです。
また来る時がくれば第二第三のQレシオなるものが湧いてきてきっと僕たちを惑わそうとするでしょう。それに縋りたくなる気持ちも湧いてくるでしょう。
でもきっとそれはまた幻になるのです。
そのような幻をQレシオの記録は伝えていると思うんだ。
それをQレシオの記憶として忘れないでいたいものだよねと思うわけです。
あなたの用意した根拠や理論。
それはQレシオになっていませんか?
そのQレシオにしがみつき自らが滅ぶままに身を任せることを防ぐには何をすべきですか?