投資で損をする人と利益を得る人の違いはなんなのか?
以前こんな記事をあげました。
投資で利益を得るという形は、対価を差し出すことで富の根拠から富を分配して貰うというカタチであると考えました。
今回はこの前提に沿って考えてみたという話。
利益を得てる人は有利なことをしている人だと思うんです。
有利なことをしてるから利益が出る。
有利なことをしてないから利益が出ない。
あまり疑いようのないというか疑いたくない命題ですね。
この命題を否定すると、有利不利で損益が決まらない、つまり運だ。になりますので。
宝くじとか有利とは言えない中でも利益を出す人がいるのと同じ構造になっちゃいます。
他にも有利はそもそも作れないものだとかいう見方も出来なくもないけど。
いずれにしてもあまり受け入れたくない。だいたい実感としても違うからね。
自分の感じるところの実感では投資で利益を出す人は有利なことをしている人だしだいたい自分の有利を理解してるし多くは意図してその有利を作り出しているように思えます。
だから有利なことはできるし、できれば投資は利益が出る。は正しいとして考えていくよ。
じゃあ、その有利とはなんなんだ?
その有利は何からもたされているか?
言いましたね?
投資で利益を得るという形は、対価を差し出すことで富の根拠から富を分配して貰うというカタチだと。
ならば、有利とは差し出す対価と富の根拠の複合体です。
富の根拠のあるところで対価を差し出す行為が有利というものなのです。
多くの投資で、多くの取引機会あるいは、大きな投資、取引機会に、大きな富の根拠があるところを選びそれに対価を支払える事こそが有利であり、利益を出す行為なんです。
そして有利でないものがたまに利益を出したりすることはあるけど(宝くじとか)、基本と言うか原則的には、その有利を用意できないと回数が多くなる期間が長くなるほど利益は出し得ない。
そーなのではないでしょうか?
だとするなら投資を続けるならその有利、用意しなきゃいけないよね?
その有利は差し出す対価及び富の根拠にあります。その有利がなくなれば、投資で利益をだすのは難しいし、利益を得てる人も利益を得られなくなり損をする人になる。
・・さて、その有利は普遍的なものなのでしょうか?
有利を構成する対価と富の根拠は普遍的なものであるのか?
対価がそれまでのものと違ったものになったり、富の根拠が失われるものであるなら、その有利は有利でなくなる可能性があるような・・・?
どうなのでしょう?
その有利と呼べるものは普遍的なのものなのでしょうか?
対価ならば、例えば月に100銘柄のチャートを見る行為。損失が大きくなっても冷静でいられること。
富の根拠なら、例えばある会社の成長。株式配当。あるいは出来高など市場規模など。
これ、普遍的じゃないよね?
月100銘柄見てたのをもう見るのやめたってありえるし、なんか悩み事ができれば少しの損失でも平静を保てなくなるかも。いままで差し出してきた対価を払えなく、払わなくなることあり得るよね。
ある会社の成長なら勿論止まることもあるし、株式投資がブーム化するなら買われて配当利回りが上昇しあとから買った人はインカムを十分に得られなくなるかもしれなし、企業減益で減配だってあるかもしれない。出来高少ないところを嫌うトレーダーも多いのはそこに富の根拠を見いだせないからと言えそうですし、市場が冷えれば取引規模は小さくなるはずです。
対価は常に同じものが差し出せるとは限らなく、富の根拠も変化してなくなることがある・・つまりその有利は消えてなくなることもある。
有利の喪失。
利益を出していた有利が消えれば、その人は利益を出す人から損を出す人に変わるでしょうね。
だって持ってた有利を喪失したんだから。
だから意識しないといけないよね?
その有利が普遍的なものでないなら、その有利が消える時にはそのやり方を変えないと利益を得る人から損をする人になってしまう。
そして普遍的な有利などなさそうだから、その有利が有利であり続けるかどうかは怪しい。
そうといえるのではなかろうか?
ならば、自分の有利が何からもたらされてるのか考え
その有利が消えてはいないかを確認するべきじゃないでしょうか?
そして消えたなら消えそうなら、新しい有利を見つけにいくべきなんじゃないでしょうか?
そんなことを思うわけです。
そんな中で自分はまず自分の有利、差し出す対価と富の根拠を考えて確かめてみることから始めようと思っているわけです。
自分のもつ有利が喪失しないように。
差し出す対価、富の根拠が作り出すその有利。
自分のそれを考え確認しておきませんか?
来たるべき有利の喪失に備えるために。