大河の一滴

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寄付の話その1

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俗にいうお金本、自己啓発本などを読むと寄付をしなさいよ的なお話がよくあります。

そういうのを読んだからですかね?結構前に、僕は寄付を継続的にしていたりしてました。
その時に寄付ってなんなのか?
なぜ寄付することはいいことなのか?というのを結構考えまして、一定の結論を得ていたりします。
ここね。
そのままだと語り口があまりにアバウトすぎるので、それを改めてこちらのブログに改めて整理してアウトプットを試みるというエントリー。

 

投資という行為はお金を増やしてやるって行為で、そんな投資を行う人は自分からお金を与えるという寄付の価値を考えるなんて方は少ないのかな?とも思います。
その中でこんな考えかたの視点もあるんだというのを伝えられれば幸いです。
あくまでもFPかもめという視点でこう考えたということですよ。
僕の話を聞いてもいいし聞かなくてもいい。聞いた上でそれに賛成だ!でもそれは違うよ!でもさらに考えてみてまったく違う答えに行き着いてもいいです。
あなたの意見はあなたが決めればいいです。

ということで寄付をすることがいいことだと考えた理由その1です。

寄付とは寄付をするその人にとってもお得な行為であるであると言えます。

寄付という寄付される人のためにそれはあるという発想からすれば、ある意味とてもドライな見方になりますが、寄付という経験は自らの利益となす事ができると考えています。

というより寄付は自分の利益のために行われるべきかもしれません。というよりべきだと考えています。

なぜなら自分のために行われない寄付はその形を歪めるし、継続できないと思われるからです。

 

なぜ自らの利益になるのかという理由をこの記事では2つ挙げてみます。

その2では他の視点からも言えることを言おうと思います。

ひとつ 、それは自己コントロールの機会となること。

継続してお金持ちであるという状態の人の多くは、その人はその人の元にくるお金をコントロールしている。とは言えそうです。

お金をコントロールすることが出来ないとお金持ちを維持できないんです。

よく本などで見る寄付の量として、収入の10%などを見ます。海外所以の書籍が多いですけど。文化宗教などの違いはあり、一概に真に受けるべきかは考えたほうが良いと思いますが、実際に私これやりました。ほぼ収入の10%を寄付(貧乏な海外のお子様支援という内容)という支出に充てることを数年間。(今はしてません)

実際に収入の10%というのは、フラストレーションが溜まる水準でした。自分はお金を使うという行為を一面犠牲にしてフラストレーションも感じながら、他の支出をコントロールすることを強いられました。逆に言えば収入の10%を寄付しようものなら自己のお金のコントロールを続けていかなければ継続は難しいのではないかと感じています。

コントロールとは2つの意味で言ってます。

・金額の管理、数字としてのコントロール

・欲望や喪失感、感情としてのコントロール

この2つのコントロールは、自分がお金の奴隷にならないために身につけるべき習慣素養であると考えています。

株式投資という限定された領域においても寄付をしていたという経験は役に立っていると感じてます。特に二つ目。

例えば自分は寄付を継続して続けたという経験でお金の喪失感に対するコントロールは人よりうまくなれたのかもしれないと感じています。

 

つまり寄付には自己投資にできる。と提言させてもらいます。

 

ちなみというか受け売りですけど。お金系の著名作家である本田健さんは寄付を投資の一つとカテゴライズされてます。お金の通信コースとかで。

本田健さんは寄付を払った価値以上のものを受け取ることになるという投資であるとしているのです。

この視点では当然自己投資にするには負荷のある水準であるべきです。例えば収入の10%はそれに当たる水準かもしれませんね。

コンビニで財布の中の余りの1円五円玉ではダメだと思います。

ふたつ、自己肯定の拠り所にできる

 これは、大きな意味でのお金の話から外れる部分になりそうです。

人が生きてくにあたって、自分は自己肯定ができているかどうかは、その人の幸せの是非に大いに関わる項目だと考えています。

どんなにお金があってもどれだけ好き勝手に生きることが出来るとしても自分という存在を自分で肯定できないのならその人は不幸なんだと考えています。

そして、残念ながら多くの人の人生において、そしてこの世の中においてその自分のアイデンティティを否定してくるような出来事はありふれたことであると言えそうです。

人は容易に自分など生きる価値など無いと思ってしまいがちだと思いますしそんな類の話を見つけるのも容易です。(自分は生きる価値がない人などいないという考えでありますけどこれは余談も余談)

そのときに、継続的に誰かを助けているという事実(事実です)を持てるわけです。

 

そしてだれが自分を否定しようと自分が自分を否定しようと誰かを助け続けているという価値が自分にあるという事実が生まれるのです。

 

ただ自分のためにと相手のためにの境界は非常に曖昧でセンシティブな話になりそうです。

相手を救うという名分の元に相手など見てなくて見てるのは自分だけなんて思える話にもなりかねない話にもなりがちですが、それをおいていたとしても寄付をするなら誰かを助けたのは事実です。継続するなら継続した事実です。

やらない偽善よりやる偽善。それが善であろうと偽善であろうと。

自分のした行為を自分のために利用できるなら利用すればいい。

というより自分を利するために自分の行為を利用すればいい。

 

寄付は他己肯定でなく自己肯定の助けにできる。と提言させてもらいます。

 

 寄付のメリットは以上です。

 

寄付というものは徹頭徹尾、自らのために行うべきと考えています。

念押しで強調させてもらいます。ここを曲解されると自分の意図と大いに違うものになりそうです。

自分の為に行うべきというのは、寄付自体が自分のためであり、自分の利益となる行為であるべきだということです。

他人からの見返りを求めるべきものでない。ということです。

見返りとは他人の賞賛、お礼、自己顕示などです。それを求めた時点で寄付はただの取引となります。おそらくは上手くいかない取引に。

それは自分の行動のみで完結するべきだと考えてます。

相手がどうとるかまわりがその行為をどうみなすかに関係なく、自分がどう行動するかのみの範囲で価値を見出す行為にすべきだと言っています。

寄付をしたという事実を知るのは自分だけで十分だと思います。それはその形を歪めないために内緒にすべきです。そして基本的にはお金のみを差し出すべきと思います。

 

また他人のために自分を犠牲にするべきものでもない。ということです。

他人のために自分を犠牲にし続けることなどできません。いつか対価を求めるようになります。不幸がうまれるでしょう。それを貰う人はあなたに対価を支払うためにもらっているのではないのだから。

 

使い古された言葉ですが寄付自体に価値を見いだせるのならそこにはWINWINが成立しているように思えます。

 

自分も仕事が変わったりいろんな環境の変化もあり現在は継続的には寄付を行ってなかったりします。
でもおそらくは日本人平均よりは寄付を見かけたらほいほい入れたりする方になると思います。あまり抵抗無いです。
長い時間をかけわりと習慣になったのかも?とか思っています。
今回の記事を書いてまた継続的にやるかなあとか思いもしたり。
そしたら所得の10%目指したいかな。

 

その2はいつか。いつになるかはわかりません。

 

 

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